online session “reconnect” 

   境界について  

 

  from me  

人と人、戸籍、性別、セクシュアリティ、人種、身体的特徴、肌の色、年齢、社会的地位、収入、生と死、時間、タイムゾーン、年号、ダンスと演劇、コンテンポラリーダンスとモダンダンス、音楽のジャンル、etc….

まだまだありますが、境界は自分の位置を知るものさしだったり、自分を理解することの方法でもあり、分析できて便利です。

ただ、その定義は曖昧で変動するものが多く、一つの観点から決められたものだったりして、自分の境界内だけではなくて、向こう側の存在も知ること、自分が当てはまること以外のことにも目を向けることは必要だなと思います。

実際に体験する、経験することができるのが一番ですが、それができなくても想像してみる。

そうでなければ、そうでなくとも、自分(自国)第1主義になりがちで、孤立したり過度のナショナリズムになってしまう。。

こんなコロナ時代は特に。

そういえば私がカンパニーを辞めたのも、枠組みの外に絶対何かある気がしたからだと思い出しました。

決断には3年(わ!優柔不断。。)くらいかかりまして、勇気がいりましたし、仕事がやっていけるか(辞表だした時はほぼ何も決まってなかったので)怖かったし、知らない場所、知ってる人がいないプロジェクトに行って恥をかくかもしれないし。。と思いましたが、一旦越えると、まさしく新しいフィールド、価値観、さらに変で愛すべき人々との刺激的な日々、そして何より自分も変わりました。

まさに今回も、たくさんの仕事が無くなり、先行き不安の暗い思考に体も心も縮こまるのを感じましたし、Onlineでのクラスも、私がやっても何を教えるんだろう。。と思ってました。(なので、ワークショップ、クラスではなく、セッション、対話なのです)

そんな時オーストラリアの仲が良いダンサーが、オンラインクラスをするから加わってと声をかけられ、何回か参加すると、見慣れた自分の部屋に響く彼の声がゆっくり空間を様々な色に変えてくれたようで、純粋に動くことを楽しんでいました。

今回のセッションもやると決めた時から、エネルギーをもらって、今日終了した後には、じんわり新しい感覚が生まれた感じがあります。

皆さんの応えてくれたメッセージを読んでいても、共感するところが多く、また、そんな視点も!と拡がりををみせてくれたり。

忙しい時にはじっくり考えられなかったことや、一人一人、一つ一つに対峙出来なかったことが今はできる。

こうして皆さんと境い目を少し超えてやりとりできる事も。

  from you  

1)ワンネスを思い出す恐れが境界を作り、またそれによって私を知ることもできる。

2)最近は心理的な境目、物理的にな境目両方をものすごく意識させられるようになって、日々選ぶこと、いままであったものについて意識させられます。

国境(難民、戦争)制度(民族差別やカーストなど)元々はっきりしていた国に比べると今の日本はまだ自分での選択肢は多いのだろうとは思うけれど、今からどうなるか分からないのかなと思いました。

3)Googleで調べましたら。仏教用語ですが果報として各自が受ける境遇。六境。認知作用·思考作用を起す「眼·耳·鼻·舌·身·意」の六根の対象。六塵とも呼ぶ。と、出てきました。

個人的には、この境界に出逢い、その境界を越えてまた別の境界と出逢い。また境界を越える。

活かせていただいている身で、与えられた試練を、これはコレで、楽しめと教わる。感じる境界とい這う二文字です。

4)境界とは、永遠の論点であり、一つに決めることができないもの、だと思います。例えば、国境も便宜上引かれたものであり、文化であったり、歴史であったり、違う観点から見ると違う境界が出てくる。そして、それを巡って戦争になる。

人は何でも白黒つけたがるのですが、人それぞれ白黒のボーダーラインが異なるので、絶対その意見が一致することは無いと思います。

少し話題がずれますが、以前、私も「境目」をテーマに古民家で作品創作をしました。その時に、建築家が、日本家屋は、障子やふすまなどを取り外し可能で、使用用途によって部屋の境目を変えられる。その機能は西洋建築にはないこと、と言っていたのが印象的でした。

日本家屋ではないですが、こんな感じで境界の変化にもっと寛容になれば、争いが減りそうです。

5)境目と聞いて、一番に浮かぶのは「自己と他者」の境目です。一昔前に比べ、SNSの発達もあって、他者との距離が近くなっているような気がします。このように外で人と会えなくなった今でも、オンラインで人と繋がれて、便利だなと感じます。一方で少し恐ろしさも感じます、、、私は中学生からLINE、Twitterを使用し、友人や、ともすると会ったこともない人たちと気軽にコミュニケーションを取っていました。ですから朝ドラでの、文通で愛を育んだという内容には驚きました。その頃と比べると、圧倒的に自己と他者の境目の壁は薄くなっているのだろうなと思います。久々に会う人とは、「久しぶり~」と言った次の瞬間には「でもあんまり久しぶり感ないね!」「インスタみてるからかな」という会話を必ずします。こんな時私は、少しの違和感を覚えつつもそれを自分でかき消しているような気がします。小さい頃からSNSを使用している影響か、私はふとした時に自己と他者の境界がわからなくなることがあります。その感覚は、インターネットで簡単に情報を得られるようになった、情報の過共有化によっても引き起こされていると思います。

 自己と他者の境目を違う視点で考えると、長い時間一緒にいると、その人らしさ、みたいなものが現れてくるのが面白いと思います。実体験としては、同じ大学に通い、同じ作品を踊り、同じ授業を受け続けて4年目になる友人たちがいるのですが、一緒に過ごしているとその人に考えていることがだいたいわかるようになりました。(もちろん時にはちゃんと口に出して意見し合わないと行けないこともあるのですが。)この状況は境目が薄くなってきていると言っていいと思います。

 人種についてもたくさん考えます。日本人は特異だと思うからです。これは世界各国から人が集まるダンスキャンプに参加した時に実感しました。文化·言語の違いは私たちの身体にも顕著に現れていたと思います。西洋の人のあのオープンで少し不器用そうな身体は自分たちとの差を実感しました。それが何から生まれるのか、文化·言語·気候·土地など様々な要素からなっているのだろうと考えました。その違いは私にとって興味深かったです。

 境目について改めて考えると面白いです。薄くした方がいい境目と、厚くした方がいい境目と、そのままにしておきたい境目と、どうしたらいいかわからない境目と、、、うまく付き合っていきたいなと思います。長くなってしまいました。。。

6)ものの概念は言葉によって生まれる(区切ることで)という論がありますが、意識したことのない「境い目」について言葉が先行して私たちの間に境い目を生むことは確かだと思います。それに左右されるべきではないとも思います。

しかしその言葉が生まれた所以(ゆえん)を考えると、何も違いがないところに境い目を感じるわけがないことがわかります。これは良くも悪くも、人間が自分たちは何者かをはかるためにグループ分けを好んでいるからだと思います。自分の属するグループで自分がどのような人間か明らかにしたいという気持ちがあるのではないかと思います。これだけだと「境い目」という言葉がもつ冷たい響きの理由にはなりませんが、グループの優劣に目をつけてしまったとき、「境い目」にすごく意味が生まれるのだと思います。

また、「境い目」という言葉に何かがリセットされるようなニュアンスを感じますが、これも私たちの「境い目」を濃くしている要因の一つだと思います。

「境い目」のこちらと向こうは本来同じものをわけただけのはずが、「境い目」が元から概念としてあるとまったく別の何か同士が存在しているような感じがします。人と人をわけるだけではなく、時間軸の「境い目」に関しても同じことが言えます。私たちは「境い目」によってすべてがリセットされているわけではないひと続きの流れや広がりの中にいることを自覚するべきだと思います。

7)境は障害か? 

人との距離は近づきすぎてもいけないというが、私自身は人には近づいて、踏み入って欲しくない時が多々ある。

壁があえて必要な時、どのように表せばいいのか、悩む。

だんだんと老いてゆき、人から取り残され、社会から置いていかれる事に対し、社会との境を作る事で自分を守っているように感じている。

8)「境界がある」って、一つの見方でしか無い気がしてます。海の地平線(境界)だって、その先を進んでいくと、どんどん地平線が変化していきます。

境界を認識するには「見る視点」、つまり基準が必要なんだと思います。

基準が、「大体みんながそう思うだろう」という価値観に成り立つものであれば、時代や流行りの考え方によって異なるでしょう。

しかし、基準を個人一人ひとりに任せたとしても、大衆煽動(せんどう)があれば、「自分で選んだのだ」と自負があっても、知らず知らず潜在意識で操作されている可能性があります。

どうして操作を受け入れ、境界を作るのかというと、その方が何かと便利だからです。

境界を作ると、分裂した各事象にラベリングが行われ、それぞれに名前が与えられます。「日本人」「黒人」「死後の世界」など

こうやって、境界によってグループに分けると、世界が捉えやすいのです。また、境界があると、自分がどのグループに属しているのかも認識することができます。自分と世界との関わり方は、そうしたラベリングを認識するところから始まるのではないでしょうか。

もし、自分が属していると思われるグループによるラベリングを外して自分を丸裸にしたら、最後に残るのは、自分自身の身体と外界との境界でしょうか?というようなことを考えました。

9)境い目が曖昧になるとき、境い目が溶けてなくなるときが快感や悦びと繋がるような感覚があります。臨死体験がよく快感と結びつけられるのは、自分がどこから始まってどこで終わるのかわからない感覚に陥るからという考察とも繋がるように思っています。私たちの細胞の中にいるミトコンドリアは別の生き物でありながらも私たちはそれなしでは生きていけず、「どこまでが自分でどこからが自分でないか」ということすら、定義するのが難しいのではないかと思います。ただ、実際に境い目がないものに対して「このような境い目があることとする」という定義付けをしなければ、私たちのコミュニケーションやさまざまなやりとりが成り立たない社会に生きているというのも事実ではないかと思います。私たちが「口」と呼ぶものは、実際には粘膜が外部に出ている部位を主に指しているだけで、実際に境い目をつけて口だけを差し出すことはできません。けれど「口」という概念がなければ、私たちの生活のさまざまなところに支障がでるのではと思います。人種という概念に関して言えば、私自身も母親は日本人で父親はアメリカ人なので、考える機会も多いのかもしれないように思います。子供の頃は特に、自分は自分というだけで「自分は何人である」という感覚は無かったのですが、周りからは「境い目」を浮き彫りにされるようなことが多かったように思います。

同時に、物事を細かくみる、いろいろなものに境い目を作ってその関係性をみることもすごく大切なことだと思います。初めて眼鏡をかけたときの感動---いままで木というのは緑のモヤモヤしたものだと思っていたけれど、枝があって葉っぱがあって、その表面には葉脈があって、木漏れ日がキラキラしているという風景に出会えた感動---とリンクする感覚です。世界まるごとをもっと敏感に、感受性豊かに知覚するためには、境い目を作って物事を考察することも大切なのかなと考えています。

10)このコロナウイルスも1つの境目だと思います。コロナウイルスが収まることで世界が今までと何も変わらない元通りになるということはないと考えているのですが、湯浅さん自身はコロナウイルスが収まった時、世界、または舞台芸術の分野になにか変化が起こると予想されてますか?

大きくあります。移動が必然的に少なくなるので、その土地、地域に土着した活動、生産が増える?インターネットはさらに加速しますし。

ついていかないとですね。。舞台芸術の分野に関しても変わらざるを得ないでしょうね。何ができるか悶々と考え中です。

11)近くまで行こう(近く、共感するなど)と思うととても距離を感じ時間がかかるが、いざそこに到達してみると意外とあっけなかったり、シンプルだったり、するんと通り抜けてしまう感じがすると思う。ジェットコースターの下る前の様な感じと言ったら良いだろうか。

12)今、目に見える世界(現実)は全てにおいて制限が多くなり、ステイホームで孤立状況であったりと一人一人に仕切りのような壁ができているように見える。けれど、内側の目に見えない世界は、いつでも変わらず壮大に広がっていて、世界中が同じ状況になった今は同じ心境の人が必然的に多くなったことで、境界が薄くなっていると思う。そして、コロナが収束した後のこれからは、現実ももしかしたら少しずつ境界が薄くなっていき、より人々の気持ちが通じ合ったり、今までの生き方や心の在り方や意識が、それぞれ変化して良い方向に人々の生き方も世界も変わっていくのではないかなと感じます。私の願望でもあるかもしれないですが。。そして、自分自身も今を感じながら見つめ直す時間になっているので、意識や在り方も変化したいきたいと思っています。

13)スーパー銭湯の炭酸風呂に入ると

小さい泡のつぶつぶがびっしり皮膚にならぶ。

炭酸風呂と私の境界に、泡つぶがならぶ。

そう言えば、炭酸水にレモンをギュッと絞って入れたらジュワワって音がなる。レモン汁と炭酸水の境界に泡がうまれて、はじけてジュワワと鳴る。

「ジュワワ」は境界線の音なのか?

水に絵の具を垂らすと

そこには水と絵の具の境界線がうまれる。

金魚のひれみたいに、ひらひらゆらゆら形をかえながら、ゆっくりと下降する。

最初はダイナミックにドラマチックにみえた境界線がだんだんぼんやりとしてくる。

絵筆を水の中でバシャバシャと横に振ると境界線は散らばって

水は水じゃなくなって

絵の具はもとの絵の具じゃなくなる。

あの清廉な水にひらひらゆらめいていた境界線はもどってこない。

今、コミュニティの境界線がググッと縮小化して

私のコミュニティの境界線は家族だけになっている。

境界をぎゅーっと色濃くひくというのは

境界の中にあるものを感じて、美しさや幸せを味わうにはもってこいの方法なのかもなと思う日々。

14)私は化学が仕事で境い目のことを界面と呼ぶことが多いです。例えば水面は水と空気の界面と呼んだりしますが、ダンスは肌という空間と体内の界面が動いているように受け取ることが多いです。同じようにウイルスが取り付く細胞壁も界面で、人間が外に出なくなって動物が街にでてきた光景も両勢力の界面が動いたように見えます。いまいろんな界面が躍動しているように見えます。

15)世界の秩序を保つための境界はあれど、境界をつくりだすことは自分自身の中にある。

性差の違いは受け入れるべきで、例えば、女性にしかない月経は、必要不可欠なものであり、それを疎ましく思ってはならないのだと考える。

性差における生来の能力の違いは、尊敬し合うべき。

だか、一方で、政治や医療の世界において、男女差が関係ない分野において、女性初の〇〇などと聞くと、いつも違和感を感じざるを得ない。

あるコンテ教師に、振り写しの際、女性らしくといわれ、「ん?」とも思う。

バレエ作品のように明文化されたキャラクターにおいて、「演じる」ことをしさえすれば良いかもしれないが。

16)人種、国境、生死に関して言えば、先進国で、島国である日本という国で今まで長く生きている自分にはイメージしにくいです。

なので長く海外に住んでいた人のお話を聞いてなるほど、と思うだけです。

実際現地に行ったり見たりして、肌で感じ、自分とは違うという立場だと感じた時が"境い目"になるのかなと思います。

17)Your opinion or thoughts on differences or common points between different countries you've worked in?

And how culture or boundaries define the relation to the body?

18)とても考えましたが、はっきりした答えが出ずに、、生きているということでしょうか、、、

 

  作品について  

1)作品を作るとき何と対話をしますか。

特に自分ですね。かなりの時間を独り言を呟きながら云々やります。あとはもちろん一緒に作るコラボレーターや、踊る人が私以外ならその方と。

2)イメージから動きを作られた後、その新鮮さ、というか最初と同じ感覚を失わない為にされている工夫などありましたら教えてください!

最初は自分とって面白かったものが慣れてくるとオリジナルの感覚が失われてしまうので、最初のフレッシュさを保ちたいなと思っていますが、なかなか上手くいきません。

難しい!衝動性、即興性の良さやその時の特定の感情のリプロデュースはすごく難しい。でも、その一過性がダンスの特徴でもあり美しさでもある。ので、私もうまくいかない時が多いです。

ただ、感情のフレッシュさを出せるように、感情も瞬時にそこに飛べるようにすることは意識しています。多重人格者のように。

あと、様々な感情を観察します。

 

3)なにか自分の中で共通しているなと思う作品の傾向や、特徴はありますか?もしくは、作品創りで大切にしていることを伺いたいです。

その時に感じていることが顕著に出る、ので作品ごとに緩やかにつながっている。

お客さんには見えないかもしれませんが、少なくとも私の中では、関連性はあると思います。

オープンマインドでありたいと、変化は受け入れるようには気をつけていて、でも最後には自分がこれ!と思ったところに向かうようにしています。

 

4)ムーブメントの探究だけではなくコンセプトや主題がはっきりしている作品が多いように感じるのですが、作品を作るときは内容や作品の意味をどれくらい考えてから作りますか?また、自身の作品で挑戦的な試みをしたことがあれば、どのようなことをしたか教えていただきたいです。

制作が決まった時期から実際に始まる間の時間によりますが、時間があっても、ぼーっと考えてることが多く、ギリギリになってだだだーっと。

作ってる最中にも色々変化します。 

挑戦的な試みは、城崎国際アートセンターで滞在リサーチをした時に、自分と身体的に異なる方とやってみたくて、視覚に違いがある方と一緒に作りました。その時は、音楽、衣装、装置、流れ、すべて考えずに始めましたが、コラボレーターの力もあって、実りが本当に多くて、結果6日間で約30分のものが生まれ、最高の時間でした。ただ作品は完成に至っていないのですが。どこかで完成させたいと思っています。

 

5)「自分の作品として人に届けたい」と思わせる原動力はなんですか?またどのようなインプットを身体を通したアウトプットに変化させているのですか?

他の人の作品を踊るのも好きですが、ここはこうすればいいのに。。とやはり作品の構成等に自我が出るので、自分で作ろうと思うようになりました。

自分で作っていても思うようにいくとは限りませんが。。

あと、パッとビジョンが見えて、これを観ていてもらいたいという純粋に欲求が湧く時も。

例えば音楽があって、その世界の見え方を作りたい、自分で見たいとか。

インプットは、なるべく見ること、知ること、ぼーっとした時間を作ること。結構、探していない時や、散歩したり、日常生活であっと感じる時が多いので、無駄と思える時間も大切ですね。実は無駄じゃない。そこから色々自分の中に貯めていって、それらが繫がったりして、そしてクラフトして出す。

6)作品を創り出すきっかけ(もしくはインスピレーション)は何ですか?

音楽、依頼、物語、人、場所、、、いつも違いますね。依頼をされた時は、人や人数だったり、場所だったりが既に決まっていることもあるので、そこから感じることと、その時に私が感じていることの中に繋がりを見つけます。

 

7)作品をつくる時、何か大切にしていることはありますか?また、作品をつくる上で、最初に何から始めますか?(いつも作る時に、まずは必ずこれをやるとか、インスピレーションをもらうとか、、、)

自分がその時に何に一番興味があるか、何を訴えたいかを自分の中に見つけます。6)に同じ。

 

8)動画を見ました。異形のようにみえる動画がありました。

情動と身体がリンクして踊っていると思うのですがいったいどんな人生を歩んできたら、あんな異形感がでるんですか?

たくさんの私よりもっと変態できるアーティストを見てるから。もっと異形のダンサーはいっぱいいて、憧れます。

人生は、、書くとながーーーーくなっちゃうので、、ただイメージや質感の違いを出せるように、なるべくいろんなものに目を向けられたらと人生過ごしてきたかもしれない。この先の人生もそうであれと思ってます。

 

9)大村湾での「またま」はとても楽しかったです。真珠が目の前に現れて、そこに人間の気配は感じず、価値という物差しもなく、一個の生命のありのままに生きる意思のような迫力を感じました。全体の構成でもっとも苦労したポイントなどお聞きしたいです。

真珠のできる過程の壮絶なお話を聞いて、インスパイアされたので、構成は結構すぐできました。

情景が見えたので、音楽の調整をそれに合わせて結構細かく変更注文しました。

苦労したポイントは場所作りと床ですね。外だったし、床に敷くリノもなかったので、プラスチックダンボールを敷きました。

 

10)振付となるとどうしたら良いか分からず身体が動かなくなってしまうのと、何かを想像したものの説明になるような動きになってしまいがちです。振付するときにもどのように感じて作っているのか伺いたいです。

感情の流れやプロットはあったとしても、それに直結しすぎた動きではボキャブラリーがでないので、全く関係のない、タスクを与えたり、インプロしたりして振りを作ってその動きのマテリアル(材料)がどの心情やシーンに合っているかを考えて、そこからその材料に感情をつけて調理する、お料理みたいですね。そんな感じです。

 

11)How and in which direction do you want to orient your work and how do you want to develop contemporary dance particularly in Japan? 

My work is a tool of expressing myself. I wonder if I want to orient my work to anything, I feel audience can decide them.

and It feels strange but, more I spend time in japan (after I became freelancer),more I feel that I don’t have direct desire to develop contemporary dance particularly in Japan. Of course I wish audience to increase and range also expand.

but I discovered beautiful and special japanese contemporary choreographers exists too.

instead, I feel more that I want to create and see the image become in real as a piece.

in that sense I am pretty selfish, but lately I kind of think that this way is more essential towards creation.

I hope I could indirectly contribute to develop dance scene as I devote into the creation.

  homeについて  

1)安全を守る場所。くつろげる空間。仕事や勉強をするところ。一人の時間。

安全だと感じる一方、安全でないhomeのことを想像しました。安全のあるhomeを持つのは、プリビレッジなことだなと。

2)自然と切断された挑戦と休息と焦燥の場所

自粛生活に入って、私も焦りを感じて悶々と過ごす中、窓からは満開の桜、その上に降る季節外れの雪、鳥、大きな満月、徐々に増す緑、たまに外に出ると、甘ったるい花の香り、ツツジの満開。久々の日本の春はこんなに美しいのかと慰められたようでした。異様なコントラストでした。

3)核戦争や環境破壊などで、家から出られなくなる夢に苛まれていました。夢の家はSFなどに出てきそうなシェルターのようなもので、いつか未来におとずれるのだと思っていました。

最近気付いたのですが、私がいるこの家·部屋がシェルターなのです。この家はあまりに超日常で夢の中では未来的なデザインではなかったので最初は気付きませんでした。日常のすぐとなりに社会を遮断する壁があるということは怖くもあり、自然でもありました。

別な視点から、今仕事でオンラインの会議をしていると、家が家ではなくなる気がしています。部屋が丸見えで、家の概念が変わってしまったな、と思いました。

オランダの家は、プロテスタントの宗教の名残(何も悪いこと、隠すようなことはしてませんというステートメント)で、窓が大きいのにカーテンがない家が多く、家の中が丸見え。

私もカーテンはつけていますが、いつも薄いシースルーのものしか引かず、それさえも閉じないであけっぴろげが多いです。

なので、こうしてオンラインで家の様子を見られるという事の恥じらいを忘れていたかも。

でもセッション前にお部屋を片付けたり、お客さんが来るような時のように、楽しみに片付けははかどりました。

4)たくさんのひとが家にいることと他人と会えないことについてストレスであるとか、違和感を表明しているのですが、わたし自身は、不思議なくらい、それを受け入れてる気がしています。

これから、after/ with corona の時代が来るとして、

過去の暮らしと何が違って

未来の暮らしに何が起こりうるのか、みたいなことを時間があるときはぼんやり考えています。

もしかすると、2045年に来ると言われているシンギュラリティはもっと早く来るかもな、とか。

でも、それ以外は、狭くなった世界をある意味で楽しんでいる側面もあったり。

もしかしてこう感じている方は多いのでは?同居、家族関係にもよるけれど。

シンギュラリティより前に、コロナですでに大きな変化がきてしまった。

2045年もすぐだな、と思ってましたが、こんなにも早くウィルスによって世界的な大変化が起きようとは。

5)homeは物理的な家というよりも、心のありかというか、その人が安心できて素になれる場所ではないかと思います。

家以外の場所でも、自分が落ち着ける場所をどこにでも見つける能力があると思います。

たまに思うことが、私は移動に慣れてしまい、大抵の場所で完全では無きにしろ結構ほぼ素になれてしまう。

自分でもその図々しい能力に驚きます。でも同時にどこへ行っても完全に安心といえる場所があるとも言えない。

最後に心から安心できる場所はどこだったか考えることもよくあります。

6)homeは自分のそのときどきの境界線の内側を指すのかもしれないと思いました。そうなるとすごく流動的で、物理的なものに囚われることもないのかもしれない。いまはみんなが身体的な意味での境界線をぐっと狭めなきゃいけないんだろうけれど、逆に地球がhomeのような、そんな気持ちにもなって不思議です。

まさしく!私もよく、homeが分からなくなって不安になった時は呪文のように、地球が homeとそう言い聞かせてます。

7)バレエの指導者をしております。

徒歩圏内なため、スタジオに毎朝行き、そこからオンラインレッスンする日々を送るようになってから、1ヶ月。

画面を通してのレッスンに慣れてきた最近、周りをふと見ると、生徒がおらず、画面の中にしか存在していないことへの空虚感に苛まれるようになりました。

あと1ヶ月この状態を送るのかどうかということにも不安さえも覚えます。

もちろん、ステイホームのおかげで、えまさんや竜さんのレッスンを受けることができるので、大変嬉しいのですが。

ステイホームのおかげで、知識が増えたり、人の暖かさ、利己主義的な人の冷たさなどを感じることもできていますが。

コロナになって、いろんなことがはっきり浮き彫りになってると感じます。良いことも悪いことも。

それは自分に対しても言えていて、どきりとします。

母と住んではいるものの、やはり、人とのコミュニケーションをオンサイトでとることができない「ステイホーム」にイライラさえも感じてしまいます。人の熱感や肌感を感じることのできないコミュニケーション…

新たに植えた花の苗たちに話しかけながら、生徒たちにスタジオで会うことができる日々が1日でも早く来ること、願ってやみません。

ダンスはもちろん一人でもできるんですが、他者と踊るという外的要素で自分が触発されることが私はとてもダンスにおいて好きなので、人に触れられない、あってこその微妙なニュアンス、駆け引きができないのは本当に辛いですね。

この間、お友達の提案でやってみたのですが、オンライントークしながらそれぞれ散歩することをしました。

みんな違う場所を歩いてるんですが、友達がたまたま入ったスーパーから聞こえる椎名林檎の曲や、道端のよく分からない花を写しては教えてもらったり、パニーニ屋さんの店長のメニューを聞いてお腹をすかせたり、ながらトークで話しの脱線は多いですが、お部屋の中でのZoom飲みよりとっても楽しかったです。オススメです!

8)やはり、実家。特に母親です。どんな私でも受け止めてくれる本当に深くて広い海の様です。結婚してから尚更実感しました。

余談ですが、年末に私自身も母親になりますが、その様になれるのか不安と同時にその過程を楽しめたらいいなと思っています。

生まれ育ったお家、また愛情を注いでくれる人は心の拠り所ですね。

私の母も有難いことにとんでもない程の愛情を注いでくれたので、彼女の存在は大きいです。

似たような安堵感を、他の人にも少し感じることがあって、よく思うのですが、homeって、そう感じられる人がいるところ、でもありますね。

母になられるということ、新たなステージですね。おめでとうございます!妊娠時期は特別に貴重な時間と想像しますので心身お大事に、満喫してください。

9)ここが自分の居場所って思える場所?今stayしている場所は「home」以外の何物でもない。

高知の絵金蔵の近くで湯浅さん踊ったのは確か「HOME」

向井山朋子さんの”HOME”は、まさに普通の家の中で繰り広げられるダンスパフォーマンスなのですが、製作中、公演中、HOMEを題材にしているのにおかしな話ですが、私はhomeがない状況でした。その前にフリーになり、スーツケースの生活が始まったので、逆に刺激的でした。

朋子さんとも製作中にHOMEについてたくさん話し合ったのですが、それぞれの家の中の常識は他の家ではそうではなく、驚くべき習慣だったり、縛られる場所であったり、殺人事件の半数以上は親族内ということもあり、HOMEは危険なところにもなりうると。

作品の中では様々なHOMEでありうる秘密、儀式、染み付いた思い出、記憶、渇望、愛憎たくさんの要素が組み込まれた、とても素晴らしい大切な作品です。

10)私のホーム/家は、今は時にエネルギーが淀みがちな場所となりつつあります。

でもリフレッシュして帰ってくれば、とても居心地のいいところになることもあったりして、その顔をコロコロと変えていきます。

私が軽いデプレッションで少し落ちていた時に、オーストラリアの友達がオンラインでのワークショップの参加を誘ってくれました、私は受講側だったのですが、いざフォーカスして、彼の声に耳を傾けると、その声の響きがゆっくりいつもいる空間を、違う色に変えていってくれたようで、表情を変えたようで新鮮でした。

ホームにいる、ホームにいよう、ということが正しいとしても、私はできれば約100%の人間が同じことを志向する、という状態から自由でありたい。みんなで一緒は気持ち悪い。そんなことも思っています。ホームという言葉が3.11の「絆」を思い起こさせます:商業的な、体制的な、まやかし。人をコントロールする正義という名の暴力装置。

できれば自分の鼻で判断しない。今はホームを持たないネズミのようでありたい。人の命は守るけど、合言葉は唱えたくない。そんな感じです

こういう非常時が起きた時には特に、妙な同調意識が働きがちですよね。

私もオランダにこの時勢に公共交通機関を使って帰るのに罪悪感を感じました。

沢山の人が我慢を強いられる今は特に、決められたことから反する行動をする人は咎められます。

結束しなければならない時ですが、その中でも、それぞれの状況を思いやったり、寛容である気持ちは、絶対に持ち続けないといけないですね。

11)日常で言えば、今ここに住んでいる家。外国に行けば日本。でも、本当は私の身体そのものが還る場所”home”だと感じます。

スーツケース生活でよく思うことは、服やもの、スーツケースでさえも壊れてお別れするんですが、唯一絶対一緒にいてくれるものは、この身体だなあ、と。

私の友人は Home is where my heart is. と言いましたが、身体は私が存在できる本当に貴重で愛すべき入れ物で、生きている間は魂の拠り所ですね。

 

12)外ではなくウチに向かう。内観し自分本来を見つめ直す。家族に意識を向ける。

コロナでの状況でのステイホームでは、強制的に自分を見つめさせられますね。とってもいい機会だとも感じています。

 

13)心の奥にある静けさ。

突き詰めると物質的なhomeは必要ないかもしれない。

 

14)これまで、忙しくしていたので私にとってのhomeは寝に帰る場所、という存在でした。しかし、このような状況になった今、1日中部屋で過ごすこともざらになり、愛しいものになりつつあります。過ごす時間の長さはhomeと感じるかどうかに関わっているんだなあと気づきました。

特に忙しいと言われている日本の生活では、家で過ごす時間が更に今増えているでしょうね。

それが吉と出るか凶とでるか、様々だと思いますが、愛着が湧いたhomeは忙しさが帰ってきたとしてもその記憶は残りますね。

 ただ、狭い部屋で(とても古い大学の寮です)踊るには向いてないのですが、それでも踊るので、自身の身体に起こってきている変化が面白いです。家具にぶつからないようにという意識と、もっと大きく動きたいという意識が戦っています。たまに外に出て踊ると、いつも以上に開放感があります。外に出歩けるようになって、大きなスタジオで踊ることができるようになった時に起こるであろう変化も楽しみです。早く広いところで踊りたい、、、(泣)

 人間は滑稽で、賢いと思います。外でできなくなったことをどうにか家でやろうとしている姿は一見滑稽ですが、賢さも身につけている気がします。一方、自分の部屋がどんどんオープンになって行くことは不思議だなあと思います。私は性格的にそんなに気にしませんが、非常なプライベートな空間が他人に晒されて行くことに抵抗を感じる人は多くいるはずです。homeが皆に共有されていくことについてはもう少し慎重に考えて行く必要があると思います。

私も部屋で踊ることによっていつもの空間の変化を感じています。

変わらないはずなのに広く感じたり狭くなったり、受け入れてくれたりよそよそしかったり。生物のようです。

 

15)家は、自分を必ず引き戻す場所だと思います。良い意味では「必ず戻れる」、悪い意味では「縛られる」ということです。

物理的な家だけではなく地域や国などにもいえますが、自分がそこに属していること、関係していること、その跡があることが「家」の認識に繋がるのかもしれません。

また、家は言い換えると「人間の巣」とも言えると思います。ですが、他の動物の巣と違うのは、暮らしで編まれた巣だという点です。私たちの家を見てみると、ただのコンクリートや木の工作物などではなく、家具や家電、洋服や日用品など、そこで私たちが暮らしを育むためのもので作られています。そしてそこには私たちの好む食べ物や嗜好品も至るところにあります。私たちの生活が具現化したようなものだとも言えます。震災や火事などで家を失った人は大きなショックを受けると思いますが、ただ住む場所を失うという意味以上に「自分の暮らし」「自分の生活」「自分が育んできたもの」が失われたことのショックがあるのではないかと思います。

家にいなければならない今、家具の配置を変えて踊るスペースを作ったりしますが、物がなければ案外場所はあるものだと実感します。新鮮な感覚ですが、そのことは、家の中に「私のもの」が「そこ」にあるという事実が安心感と退屈さを同時に私に与えていることを気づかせてくれました。

オランダの家を買った時、(まだローン真っ最中ですが)買ったとしても、執着はされないぞ、と心に決めたことを思い出しました。

そのせいで、5年後に放浪生活が始まったのかもですが、家の中には好きな家具をもちろん置いたり、絵を飾ったりしてたんですが、放浪生活中は、物欲がびっくりするほど薄くなっていって、それは、単に重くて持ち歩けないからもあるんですが、縛られたくない、失くしたくないの気持ちからが大きかったです。

今は心からhomeといえる場所を見つけたいと感じてますが、見つけたとしてもやっぱり縛られたくないとは思っていて。。わがままですね。

 

16)まず初回に湯浅さんもおっしゃられてたように、感じることも、考えることも日々変わっていくものだと思います。

homeと聞いて今思うのは下記のことです。

*心が決めるもの。家としてあっても、心の家ではないかもしれない。

*逆に頭で違うと思っていても、家に戻った時に身体や心が緩む場合はある。引っ越して住み慣れない、まだ心の許せない場所だと思っていた家に一週間の旅行から帰ったら、なんだかほっとした時の心の変化。

*いたいと思う場所、いつづけられる場所?

今のステイホームの場合は安堵と檻が合わさったようなもの。

ものには2面性が必ずあると思っていますが、コロナ禍で安心のできる家が息苦しく感じられたり、逆に愛着が湧いたりと、沢山の人がhomeについての2面性を感じているでしょうね。

私も、放浪生活を始めてから今までで、一番オランダのアパートで安堵を抱いているかもしれません。自分でも驚きました。

ただずっとの場所ではないとは確信していますが。

 

17)たしかに今ほどHomeを意識できている時間はないです。これまで往復80分の通勤時間を当たり前のように過ごしてきましたが、いまそれをすべてHomeに使えるようになって、日常的に修繕とか団らんとか読書に使えて、気が付くとすべてがものすごくはかどってる笑。いまさらながら蓄積ってすごいし、こわいなと思いました。自粛が解禁されて元の生活にもどっても忘れたくない経験になってます。

私もゆったりした時間を過ごせて、仕事は無くなりましたが、不思議と生活リズムはだんだん整ってきてます。初めの3週間くらいのディプレッション気味の時はぐちゃぐちゃでしたが。このオンラインセッションのおかげでもあり、考える有意義な時間も今は増えました。 

ただ、一度結構深く落ちた時があったからなのかもしれません。何も気力が起きない時は、罪悪感を捨てて、暗い気持ちに思い切り没頭する経験も大切だったと私は思ってます。

 

18)無防備になる感覚です。私にとってそれは場所に限らず、人だったり、雰囲気だったり、音楽だったり、瞬間だったりもします。

初めて体験することでもその感覚は訪れる時があったりもします。そしてその感覚を呼び起こす場所から離れなきゃいけなかったり、手放さなきゃいけなかったりすることもありますが、思い出すことは出来ます。

分かります。houseは物質ですが、homeはやっぱり概念で、様々な場所、ものに見つけられるのかも。

私はにおいでも時々その感覚があります。ただ、同じ人、音楽なのに、その感覚が戻らないこともあります。

 

19)homeは、自分の安心できる拠り所を指すと思います。

実際の土地だけでなく、想像の中にも生み出すことができると思います。

そこはきっと「ただいま」と言えるようなところです。インナーチャイルドが癒やされるところでもあるでしょう。

想像の中のhomeはとても新鮮でした。ちょっと違いますが、夢では時々どうしようもないくらい愛しい安心できる場所などに出会います。

このテーマを受けて、ホームレスやジプシーの存在を考えました。彼らには具体的な住所がありません。

特定の住所を作らないことは、生きていく手段でもあります。

一方、私達のようにある住所を持って暮らしている者は、Stayhomeが指しているhome(家)に暮らすことで、命を守っています。

しかし、どんな立場の人でも、そこをhomeと言えるかどうかは、愛着の度合いにかかっていると思っています。

愛着を持つのにどれだけ時間を要するのかは、人それぞれです。

心がホッと出来る場所であれば、どんな場所、想像の世界であっても、それはhomeと言えると思います。

特定の住所をあえて持たない生活様式と、持てない場合とでも大きく意味合いが変わってきますね。

現実でも想像や夢の世界でもhomeを渇望している人はきっとたくさんいるだろうなと思いました。

 

20)緊急事態が今月末まで延びましたね。私の周りでも「家」に帰りたくても帰れない人が大勢います。東京とか大阪に仕事や大学で行っていても県を跨いだ移動自粛で、動きが取れない状況です。仕事や学びで海外から来ている人も然りです。その時生活している場所が「家」と感じる時はありますが。今「帰りたい」と思っている人たちは、今いる場所はやはり「家」ではないのでしょうね。医療現場で働いている方達、難民…。世界中「帰宅困難者」「家」を求める人だらけ。しかし「家」が帰りたい場所でない人もいるでしょう。そうしたらやはり「home」とは精神的に定義されるべきものなのか?「帰りたいと“思う”場所」「自分がいてもいいと“思える”場所」なのか?感染するからと「家」の中でも家族と暮らしていてもお互い距離をとっているというのも聞きます。反対に家族間では距離を取りたくてもなかなか取れないため諍いが絶えないというのもよく聞きます。

今回のコロナ禍は私たちに「home」とは何か改めて考えさせてくれる素晴らしい機会だとポジティブに受け止めたいと思いつつ、考えれば考えるほどわからなくなる今日この頃です。

私もhomeを考えては答えは出ませんが、一つ言えるのは、状況によって常に変わり得るものかもということ。

人が変わる、自分が変わる、感染症が蔓延するこの状況もまさに。

「自分がいてもいいと”思える”場所」というフレーズが刺さりました。

自分だけで決められるものではなく、そこにすでにいる人、コミュニティに受け入れられるかも重要です。

 

21)私にとってhome=居場所、心地よい場所、自分がありのままでいられる場所 という認識があります。そう考えると、自分にとってのhomeとはどこだろう?なんだろう?と、ここ数年ふと立ち止まる時によく考えることがありました。(主旨から逸れていたらすみません、、!)

今年の3月末からダンス留学の予定で、東京から一時的に九州の実家に帰っていました。コロナによって、留学は延期に、そのまま結果、実家に今もいます。必然的に、約6年ぶりにこんなにも長く実家にいることがなかったので、なんだか不思議な気持ちです。東京でダンスや仕事をしながら、たくさんの素敵な人達に出逢い、あたたかい居場所もたくさんできました。でも、それでもどこか、ダンサーとしての自分の本当の本当にここだ!って思える場所がまだ見つかっていない気がして、ずっと探している自分がいるように感じていました。

実家に帰ってくると、当たり前かもしれませんが、家も周りの環境も全てが、いつも安心があって、暖かくて、幸せで。自然ってこんなに美しくて尊いのだと、心がふわ~っと広がる気持ちになります。ぐるぐるした心や頭の中を、整理して内観する時間をくれる場所でもあるなと感じます。ここにいると、頑張っても頑張らなくてもいいような。「実家、故郷」とは、どしっと存在していて、ありのままの自分を包む大きな大きなhomeだなと感じます。

こんなに幸せなら、ここにいてもいいのにと思うのに、「ダンサー」という枠組みの中にいる自分を見ると、その表現者で在る自分が納得できる居場所=homeを見つけたい、探したい、とやはり思っていることに気付きます。。正解も間違いもないし、誰も何も決めつけてなんかいないけれど、自分の価値も自分で決めることですが。。居場所っていくつあってもいいと思うけれど、果たして何なのだろうと思ったりします。

まとまらず、自分の話になってしまいました。。。今日も楽しみにしています!

私も、この状況になって、すぐに実家に帰りたいなと思いました。親は元気ですが高齢なので万が一移してしまうことを考えて辞めましたが、庭があり、この時期は芝桜が美しく、ゆっくりと親と過ごせたらと思います。

ただ、去年少し長い間実家にいたのですが、その時に、親がいなくなってしまえば、この安堵感は無くなってしまうと強く思い、そうなったら私はここをhomeと思えるかと疑問に思いました。まだ先のことであれと思っていますが、いつかは向き合うことですね。

ダンサー/表現者として思い切り花を咲かせられる機会や活動場所を見つけるのは簡単ではないかもしれません。この自粛後はダンス自体をやることが難しくなるかもしれず、私もこの先どこで踊るのかを考えます。

人が密集できなくなるかもしれない、これからの大きな変化を想像して思うことは、人の生活が拡散して、農業が増え、それにまつわる季節ごとが再発して、そこで行われていたダンスが復活したりして、、昔からあったダンスの形が、新しい感覚を持って蘇るのもいいかもしれないなんて思ったり。話が脱線しましたが。。

 

22)ゆっくり寝れる場所

私それとても得意!どこでもhome?

 

23)パワーチャージするところ

やはりhomeはひとっ所ではなさそうです。

  お好きに  

1)バレエは踊りに含まれますか?

入ると思います!沢山の踊りのジャンルの一つですね。

 

2)「間」と身体性についてお聞きしたいことがあります。踊り手の動きと音楽のあいだに生まれる「間(ま)」が、同じような「間」を持つ観客に伝わると、お互いが共鳴し感動が生まれ、美しさすら感じることが出来ると私は思います。またその「間」は揺らいでいるし、人それぞれ異なるため個性が発揮される部分だとも考えています。湯浅さんは実際踊っていて、(または稽古をしていて)そのような「間」がコネクトし、何かを感じる瞬間はありますか?またその感覚を言語ではなくあえて身体で表現する醍醐味は何ですか?

他のダンサーと一緒に踊っている時、特にデュエットは、その「間』がとても大切ですね。生演奏や、無音の時などは特に。

お互いのケミストリーや、それぞれがその時に向き合っている問題や、心境状況にもよるので、うまくいかない時は、相手の心情を想像したら、「間」が合うことも。「間」は無ではなくてたくさんの情報が空間に浮遊している状況かなと感じます。普段の生活でも、無言の「間」が多くを語ることは多々あるので、それをお互いが共有することってありますよね。

ダンスでは、喋らないからこそ身体でものすごくやりとりがあって。

ただ、あえてダンスでのみ「間」を表現しているのではなくて、普段の生活の延長上だと思います。

私が作品を作る時に意識的に気をつけているのは、「間」を作る事を恐れないこと。いつも心配で動きを詰め過ぎてしまうので。

あと、音楽も「間」を感じられるものが好きです。その隙間で私も、お客さんにも、自由に妄想する時間を持てるように。

現代では、ネット等の普及で人間同士の心の距離は近いですが、その弊害として生身の身体同士の距離は物理的に遠ざかっています。ですがそれで本当に相手を理解することができるのか、疑問に思います。身体の触れ合いやそれによる感覚であったり、身体が覚えていることは、人間同士の理解を深める上で大切なものだと思うからです。

身体性を大切にする職業についていらっしゃる湯浅さんもそのようなことを踊っていて感じることはありますか?

フリーになった時に特に感じたのですが、nice to meet you のすぐ後に体に触れ合って、踊る場合がよくあり、自己紹介をすっ飛ばして、ぶつかり合うと、先入観なしにその人の深い何かがわかるような時があります。

メールやチャットでは書く時間を与えられるので、その間に取り繕ったりしてしまう。その分体のリアクションは結構顕著に感じられますね。

 

3)「今考えていること」について 今、という瞬間を生きたいと思うようになりました。

目の前の、今この瞬間。例えば文字を打っている、この時間の今。そうしたものを大切にすることで、自分自身を否定したり、ダメ出しばかりしてしまったり、しなくなるものなのか実験しています。明日の予定を考えることをやめるような、今のダンスができたらと、日頃思います。

私は結構思考があっちゃこっちゃに飛ぶんですが、いろんな事を同時進行したがる。ので私も、そう気づいた時は、ちょっと止まります。

私はネガティブになる時は、大抵何かと比べたり、やってしまった事を後悔してるんですが、そういう時は、その陥った状況で、自分が一番何をしたいかを考えます。

ダメ出しは良くなる為だからそこは自分で分析して、変更できるいいチャンスですよね。

踊る時は考えるとろくな踊りができないので、考えるのは準備期間で、踊る時はその瞬間を楽しもうと思ってます。

4)湯浅さんの踊っておられる動画を観ながら人だけでなく、場所やオブジェなど身体を取り巻くあらゆるものとチューニングしながら踊っているように見受けられました。動画を観ただけで「みた!読みとれた!」とは言えないのですが、そう感じました。

チューニングは「同調する」や「調律する」という意味ですが、合わすの前に、自分の状態を知る内観と、合わす対象を聴く時間が必要になり、やればやるほど内観と外観が同時に行えるようになります。

大抵はじめての場所や人に対しては時間がかかると思います。

これは経験による能力でもありますが、心理的に自分を開くことでスムーズになるかと推察します。

湯浅さんは、踊る時に何か心掛けているようなことはありますか?

結構ちょこちょこありますが、最近は「ダンサー」にならない事に意識しています。

体はダンスをしていても、頭や感情のステートは、ただの自分。観客との距離を縮めたくて。

また今回のクラスを受けている人たちから何か感じたことはありますか?良ければお聞かせください。

ムーブメント中は、私の体や、行っていることが伝わるように、なるべくはっきり見えるように、聞こえるよう、イメージが浮かぶように言葉選びなどに集中していたので、スタジオでのワークショップよりも皆さんの様子がそこまで見れてないんですが、こうしてメッセージや対話でのやり取りで、スタジオでの経験とは違ったアプローチで身体の動きよりも心の動きをより強く感じます。

5)ダンスは好きです。それなのにこれまでもっとも遠い存在でした。体を動かすのも好きだし、歌を歌いながらみなで踊るのも好きだし、観るのも好きですが、「習う」となると、楽器よりも遠い存在笑。そんなダンスに、いまなら取り組めると思って、参加してみたら、やっぱり思っていた通り新しい扉を開いたように楽しいです。これからもチャンスがあればどんどん参加したいと思っています。

ムーブメントは揺れる、書く、触る、思う、など普段やっていることを少しだけ延長してみる感じを思っていたので、こういった感じで入れると思います。ぜひ!私も新しいことへ踏み出す勇気はいつになっても持ちたいです。

 

6)最近、SNSを見ていて、家にこもらなければならない状況を何とか楽しもうとしている人と、ただただこの状況の愚痴を言う人の2パターンの人間がいるんだな、と感じています。インターネットのおかげで、工夫次第で、飲み会をすることも、近況報告をすることも、ダンスクラスを受けることも仕事をすることもできます。

こういう時こそ、従来の形式にとらわれずに、新しい方法を模索できる思考の柔軟性が試されるな、と思っています。

そういった私もオンライン形式のダンスには懐疑的でしたが、このセッションで自分になかった視点が生まれたような気がします。

変化し続けることは、大切ですね。

 

7)エマさんが、日々過ごす上で心掛けている事、気を付けている事はありますか?

小さいことに目を向けること。

テーマを決めてのディスカッションはとても刺激的でした!日常で感じる事を、人とディスカッションする機会が減っているなと実感し、今の自分には必要な事だなと思いました。素敵な機会をありがとうございました!

私も感情が蓄積されていたので、きっと同じように思っている人はいるだろうと思って対話を必ず入れたかったのです。

エマさんは作品の創作過程で誰かに見せたりしますか?その時にいただいた感想やコメントはどの位作品に影響しますか?

というのも、私は創作していると、人の意見に惑わされ迷宮入りしてしまう事がよくあります。

今回のセッションでも感じたのですが、人によって本当に様々な解釈があり、より多くの人に伝わる作品にしたいと思い、意見を取り入れて創っていくとよくわからなくなってしまいます。

そもそも、万人受けしようと思って作品を作るのが間違っているのかもしれませんが…エマさんの体験談などあればお聞かせいただきたいです。

いつも制作時間が短いので、途中をお見せすることはそんなにないです。でも、意見は聞きます。

ただ、自分の中で反芻したり、その意見後の修正を想像したりして、腑に落ちないものは取り入れません。

私も沢山の人に伝わってほしいと思う反面、その伝わり方や解釈はそれぞれでいいと思っているので、私の思いを完全に理解してもらおうとは思いません。

ただ、観てくださった方の中の毎日に少しでも残って、何かの拍子に疼くといいなと思ってます。小さな傷のように。

それは、私が今まで見た心に残った作品は(ダンスのみに限らず)全てそうだったからです。日常がちょっと変わるんです。

8)いろんな変わり目の時に自分自身も大きな変わり時を迎えています。

改めて、自分のこと、伝えたいことを考え出したら、混乱。それでこの12日間あまり、ずーと何を表現したいのか、どうしたいのか、私にできるのだろうか?と考えこれまで読んだ本をもう一度読み漁る日々。そんな時、ふと少し、救いの手が見えたのが、本の中の言葉が腑に落ち、それはおそらく何百年も生き続ける木々に囲まれた時でした。涙が溢れて止まらなくなりました。

花は花であるように、鳥は鳥であるように、木々は木々であるように、私も無心で踊れることが、なんというか、自分の体で彼らとつながることができたらどんなに素晴らしいだろうな、と思いました。奉納という言葉が気になります。見えない命に捧げ、感謝するように体を動かすことができればなあ、と。

奉納で思うことが、媒体です。

奉納舞はあまり詳しくないですが、何かを降ろしたり、踊ることによって向こうとこっちを繋げる媒体になるのかな、と。

人間は幸か不幸か考えることができますが、踊りってもともとトランス状態が多くて、考えることの放棄みたいな。身体をいったんモノにする。

そうしたら、よりその状況や環境に敏感になれるのかもしれませんね、それから向かうべき方向へ調節するように。頭で考えるのではなくて。

9)先日友人と話していた時に、この自粛期間中で自分にとって大切なものがなにか、大切な輪はどこか、大切にしてくれる人は誰かがわかってしまうという話をしました。その友人は異性に「会わないか?」と言われ、本当に大切な人にはこんな時期に会う選択をしないだろうと思ったそうです。このことから二つのことを最近考えています。

近頃、大学生らしく恋愛の話をすることが増えたのですが、その際にいつも感じるのは、なぜ異性を同性と同様に大切にできないことがあるのかということです。ジェンダーや女性のモノ化というのは最近日本で話題になることが多く感じますが、そういった問題の根本的な部分は誰もが経験したことあるような身近なことではないかと思います。性別だけではなく、「違うカテゴリー」にいる人を大切にできない瞬間があると思いますが、性別はより身近な気がします。人間として向き合えない性のラベルがもどかしく居心地の悪さを感じることもあります。しかし、性というのは生物として生まれ持った元々の性質だと考えると、「生物としての人間」と平等を求めたい「社会的動物である人間」の矛盾に気づきます。この矛盾は至るところに蔓延る問題で解決しようがないのではないかと思う瞬間もありますが、苦しい矛盾の中で人間は落ち着ける場所を探して不完全な社会の中に住み続けるのだと思います。

この状況で、人を愛するって本当にレベルが上がった気がします。

相手に対する感情が自己愛からなのか、無償の愛なのか、突きつけられて厳しいですね。。

日本のジェンダー問題や、差別問題はやっぱり根深くって、一見おとなしいのにパッシブアグレッシブだし、なかなか根本までたどり着けない気がします。境界の話も一緒ですが、これはやはり声を上げる続けるしかないかと。

ただ、一方的な意見では溝は埋まらないので、向こう側の視点も常に想像できるようじゃないとですね。

二つ目は、大切なものは何か、大切な人が誰かわかれば、自分が蔑ろにしてしまっているもの、誰かがわかるはずだということです。一つ目とも関係しますが、この逆転の発想がない人は多いと思います。自分大切なものはわかっても、大切じゃないものは見えなくなっていって知らない間に傷つけていることもあります。ですが、最近思うのは、そういう人を責めてはいけないし、それを「考えられる」自分を傲慢に思わないということです。私は考えることが好きなので、他人に「なんでこのことを考えてくれないのか」と思ってしまうことがよくあります。自分のはかりで他人をはかって自分にとっての善悪を決めつけてしまいます。これをしないと自分が辛くなってしまうことがあるので難しいですが、自分のはかりで他人をはからないことが、私の「考えてしまう」癖を長所にしてくれるのではないかと思っています。(なかなか難しいですが……)そして、これが美意識にも適用できたら、ダンスの可能性がもっと広がるということを強く感じます。

考えられるって、人のことや周りのことに気づける素晴らしい能力である一方、その理性にきっと自分もそれに縛られそうですね。

美意識はそれぞれ違うものですが、美しいものは理性的ではないと思います。理性的なものは潔癖で綺麗で無駄がなく、スマートで配慮がありそう。でも美しいってちょっと違う気がします。私の好みですが、清濁混同していて、破天荒で悪のどうしようもない中にも美しさは見つけられますよね。普通の生活では迷惑ががられることや、気づいてしまう、人の醜い部分を、ダンスで表現するのも振り幅は広がりそうに思いました。

10)何が一番大事ですか?

身体ですかね。身体がなければ生き物として存在できず、何も経験もできない。

ただ身体を守ることが大事ではなくて、どうこの身体を使うかが大事かなと、何を体験するか。精一杯使い尽くして消耗するというか。

人と作品~セッションの感想

私は湯浅さんの知識が沢山あったわけではないので受講できてよかったなと思いました。

「作品はその人でできている」

指示や見本を見たり一緒に動いていると、作品や動きと人がどのぐらいつながっているのか、どんなふうにつながっているのか少し分かった気持ちになりました。

これを受講する前の想像とかなり違う方でした(とにかく強そうな印象だったので)。

繊細で、よく考えた対応をしてくださるので、作品にしても、今回の受講する人にしても、心が動くのかなと思いました。

たくさんの国や場所を行き来しながら人種の違いにもさらされてる方の言葉や揺れは説得力があって、人の気持ちを動かすのは、そういうリアルさなのかな思いました。そしてそこから作品に昇華するんだなと感じさせていただいた気がしました。

深度

モニター越しに相手を見て、理解しようとする。感じ合う。

案外人間はすぐに今までと違う能力を育てて、発達させていくのかなと思いました。

手の届かない場所や人。その深度に。

私もセッションから可能性を感じました。

最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である。

の言葉が響きます。

世界

いろいろなことに落ち着かなかったり、忙しかったりで時々ふっと「何をしてるんだろう」と思うことがあります。

目にするニュースに重い気持ちになったり、嫌な気持ちになることも。

作品を作ることにも、生きることにも悩むことがありますが、そういう時に思い浮かんでくることがあって、それは

「それでも、今日も誰か(何か)この世界に生まれている」

それがどんな場所で、幸せなことなのかもわからないけれど。生きているということがよくわからなくなることもあるけれど。

世界が続くということは何かが生まれ続け続けているということなのかなと。

人の活動が止まって、動物や植物が盛り返すことも。人間目線でなければ何かが変わって、生まれて、進んでいくことなのかなと。

自分の視点で見れば悲観的なことも、大きな俯瞰の目で見れば、この変化も地球にとっては必要不可欠な流れでしょうね。

私たちが永遠に存在するわけでもないですし。とはいえ、全てが粒子のつぶつぶでできているので、滅亡しても全くなくなるというわけでは無さそうです。

11)インプロや、自分で創作するときにまず先に湧き出るものはムーブメントですか?それとも感情ですか?

インプロは両方。創作の時は感情ですね。

12)日本と世界を股にかけて活躍されていますが、日本のダンス界の良いところ悪いところ、好きなところ嫌いなところってありますか?

良いところは、情熱があってとても勤勉なところ。悪いところは、サポートが少ないこと、規制が厳しいこと。

私は2019年秋にオイディプスの舞台を見にいかせてもらったのですが、演劇などをやるようになったきっかけはなんですか?

シェルカウイさんとの出会いです。彼と仕事をするようになって、その最中に日本での彼の演出した演劇作品、”Pluto”に誘われたから。

それが1回目で、それから”オイディプス”にお声がけいただきました。

コレだけ色々な場所にいかれて忙しいと思うのですが、仕事とプライベートどのように両立させていますか?

なかなか。。難しいですね。。線引きがあやふやなのもあり。。課題です。

13)ここ数ヶ月は、どんどん無意識の「当たり前」が変動しているなあとひしひしと感じていました。昨日までの当たり前が急に変わってしまう。階段を一段踏み外すよう感覚を何度も感じました。そのことにも次第に慣れてきて、少し諦め混じりのところから、少しずつ「この状況だからこそなにができるか」を考えられるようになりました。永麻さんや海外のダンサーさんなど、普段だったら想像していなかった形でレッスンを受けられたり、いろんな作品に触れることができるのは本当に嬉しいことです。同時に、生の身体をみたい!同じ空間を共有したい!という気持ちもやっぱりあって、切ない気持ちにもなるのですが、、。普段だったらなんとなく世間の流れというものが見えるけれど、このような自粛生活が続くと、そのような世間のなんとなくの基準もだんだんあいまいになってきて、内省したり、自分の持っている価値観について考えたり、自分に向き合う時間もすごく増えたと思います。そんななかで、身体に向き合うと同時に、会話ではなく「対話」をする機会があるのはすごく嬉しいです。しかも異なる場所で生きている、いままで知らなかった人たちと。このような機会を作ってくださってありがとうございます。

この状況にならなければ、すでに可能だったオンラインでのセッションは、頭に浮かびませんでしたが、こうして世界中のどこでもムーブメントやディスカッションを一緒にできるのは、もちろんスタジオで直に共有することにはかないませんが、大きな可能性を感じました。

14)普段、過不足を、極性を整え、価値観を自分軸に戻すようなセッションをしているのですが、今、この状況で世界的に強制的にそこを内観させられている。

地球が変化していっているので、仕方のないことだが、ここ数年段階を経てきたことが加速している。

どんな時も良いも悪いもあり、デメリットとメリットは同等にある。

それが世界であり、宇宙のバランスであり、法則。

どこを見て生きたいか視点の問題になりますが、自分が中心にいれば、それが昨日でいうところのホームでもあると思います。

自分がどう在りたいか、どう生きたいか。を考えています。

どう在りたいか、生きたいかと思った時に、ジャック・アタリ氏(Jacques Attaliフランスの経済学者、思想家)の提唱する「利他主義」Altruismを思いました。”利他主義とは他者の利益のためにすべてを犠牲にすることではなく他者を守ることこそが我が身を守ることであり家族、コミュニティ、国、そして人類の利益にもつながる”という理念らしいのですが、聖人のように自分を投げ打って他者に尽くすのではなく、自分というものを大切にするからこそ、他者を大切にするというのは、とてもしっくりきました。

15)踊ることはもちろんもちろん!好きですが、えまさんが行ったムーブメントやGAGAなど、身体の声を聞きながら、可能性を追求したり、感覚を大切に丁寧に向き合いながら動かしていくことにすごく興味があります。

この興味はよくよく振り返ると1.2年前からふつふつと湧いていたと気付きました!

テクニックや基礎ももちろん大事ですが、外側の形と同じくらい、内側にすごーく私は興味があるようです。なので、GAGAやえまさんのムーブメントに出逢った時は、これこれー!!という感覚になります。えまさんのムーブメントは、これまでの経験などを通して、ご自身で作られたのですか?GAGAの指導資格は持っておらず、ムーブメントもまだまだ自分の中でこれ!というものを持てていないですが、私も身体の無限の可能性や解放する喜びを、たくさんの人に伝えたいです。

私もGagaは大好きです。オンラインでムーブメントを一緒にやるのを考えた時に、カウント、フォームの共有がそんなに必要のないものでないと特にダンスの経験のない人は混乱されてしまうと思い、内容を考えました。

いろんなものに影響されていて、私も常に一つのムーブメントの方法をとってませんが、今まで自分に合うと思った、気持良いと思ったウォームアップや、振り付けのタスク時で使うことなどを、感情の起伏、解放も織り交ぜながら作りました。

私は振りを作ろう!とすると、いつも忍耐や集中力が足りないのか楽しくなくなってしまい、途中でストップがかかります。ただ苦手なのかもしれないですが。それよりも、なんも考えず感じたままやインプロのほうが、怖いですがワクワクします。でも、ダンサーである以上、振付を作ることも楽しいなと思える自分になりたい!と葛藤します。。笑

私も身体の可能性や美しさを伝え、そして世界中の誰かの心をぷるっ!と震わせたり、感動を届けるダンサーになりたいです。なります!!☆

様々な感情や情景をダンスで伝えるために、たくさんの感情を知る、他の人の立場を想像してみることも大事だなと思いますが、やっぱりそれを伝えるには、同じくらいたくさんの道具を持っていた方が伝わります。言葉みたいに、気持ちを的確に表す言葉を知らないと、相手に伝わらないので、私ももっとムーブメントのボキャブラリーと、違った立場の人の物の見方は広げていきたいですね。

15)今緩和ケア中の母と二人暮らしなので、夕飯時は無理…(泣)と思っていたのですが、昨日妹が来てくれたので、永麻さんのクラスやっと受けれたらやっぱりすごく良くて、今日もわがまま言って受講させていただきます。

昨日は高知のあのキンキラ壁の「HOME」が見えて、ホントに懐かしかったです!公演終わった後爽やかに自転車で駆け抜けていった永麻さん、その後寄った古道具屋さんでも絵金蔵の近くでもお見かけしたけど、声をかける勇気がなくて…

その後山田うんさんの「雅歌」も観に行かせていただき、愛媛に住んでますが、今は叶わぬ越境で、えまさんの作品を二回も見れて、大変幸せでした。

きっとrealでは永麻さんのレッスンなんて受けられなかったと思うので、竜さんの企画に感謝この上なく、そして永麻さんのお話を通じて繋がってる感…世界も捨てたもんじゃない!と思えました。コロナでできないことを嘆くんじゃなくて、できることを探した方がいいとよく言われますが、このオンラインレッスンは私に不可能な時間と距離を埋めてくれて、素晴らしいとさえ思えました。

永麻さんはじめ、舞台に携わる方達含め苦しんでいる人だらけだと思いますが、皆とりあえず生きましょう。

思わぬ偶然に私も高知の 「HOME」をセッション中にまた覗けて本当に嬉しかったです。

スタジオでのクラスは敷居が高いし、近い場所での開催もないかもですが、こうして、オンラインで普段は受けていただくことが難しい方も受けていただけるのは、私にとっても本当に嬉しかったです。今度は見かけたらお声がけください。

16)私は俳優をしていますが、コロナの影響でみんなが自粛するようになり、私も一日を家で過ごす毎日になりました。バイト三昧だった私にとっては強制的に練習や稽古の時間が増え、不謹慎ながらラッキーとすら思っているのですが、舞台の第一線で活躍する方々は苦痛で仕方なく憤りすら感じているようです。自分の劣等感からか、その人たちの感覚に”追いつけない”と感じて自分にイライラすることがあり、自粛期間が終わることへの恐怖すらありますが、そう感じるのは私だけなのか興味があります。

受講された方の中にも、自粛での時間は自分のためにしっかりと費やせると感じる方もいらっしゃいます。

私は、初めは次々の仕事のキャンセルで気持ちが落ちましたが、普段疎かにしていた身体のメンテナンスをするようになり、仕事で踊っている時よりも、身体に意識をしている気がします。

だけどやはりこの時期は、ネガティブな方へも気持ちがグーーっといろんな方向に揺らぎがちです。出来た時間を練習や稽古に没頭できれば、自粛期間が終わった時にはレベルが上がっているんではないでしょうか!

17)高知で「HOME」、その翌年は神津島で「雅歌」を観ました。舞台作品を観るために(オーディエンスが)電車やフェリーに乗って身体を移動させ、風景や季節を体験するのですが、その体験があってこそ想像力が働くのか?

COVID19で物理的に隔離された環境下では、同日の昨年や一昨年のこと、子供の頃のことを思い出す毎日です。

こうなる直前は、日本国内でも観たい公演やアートフェスや人を集めるリアルイベントがどんどん増えて増えて増えて、パーンとはじけた気もしていた。でも程なくしてこうやってONLINEで集まったりして、呑み会、焚き火を囲んで語り合うシーンさえも人間は発明してしまい、懲りないのだ。

あと、今回のレッスンに使われていた曲名をしりたいです!永麻さんのことばと歌詞がシンクロしてるっぽかった。

あらゆる公演、イベントができなくなり辛いですが、この状況でもどうにかして他の方法を見つけていく貪欲なエネルギーは頼もしいです。

いつも音楽ってとっても大切だと思ってるんですが、それぞれの違うプライベートな空間を、音のバイブレーションで繋げて、変容できればと思ってましたので、曲はじっくり選びました。今回のプレイリストです。

When I Call A Name /Michael Andrews

Waves/Ibeyi

即興曲 変ト長調/フジ子·ヘミング

Only Our Skin/Lamb

Secretly/Skunk Anansie

Le jardin féerique from Ma mère l'Oye/Valeria Szervánszky & Ronald Cavaye

Colorblind/Counting Crows

Life Is / River Was Filled With Stories/World's End Girlfriend & Bae Doo-Na

We Are the Massacre (Live)/World's End Girlfriend

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photos ©柘植伊佐夫